病婦のdiary

気づいた時に、できる時に

《今日は父の誕生日、父の話をします》

「不安定な睡眠」で御心配をかけているマインドです。

昨夜は早くといっても1時ぐらいですが眠ることができました。

今朝は6時半ぐらいに目が覚めました、まあまあでしょうか。

7時ぐらいまでは眠っていたかったですが(苦笑)

 

さて父ですがどこから書きましょう。

 

父のお母さん(私の祖母にあたる人です)は結核で父が10歳ぐらいの時に亡くなられたそうです。

昭和の初期ですからまだまだ結核に効く抗生物質はない時代でした。

その時父には姉と兄と妹がいました。

父はとてもやんちゃで姉や妹をいじめたりするような子供だったようです。

祖父が再婚したのですが義母に懐かなかったのでしょう、親戚に預けられて育ったようです。

祖父は田舎医者でした。

今みたいに医者が多い時代ではなかったですし、人力車で遠くまで往診などもしていたようです。

なので父は金銭的な苦労はなかったと思いますが愛情面では辛かったと思います。

「医科大を受験しろ」と言われたようですが本がとても好きな父は「小説家になりたい」と一浪したらしいです。

父の母の妹が満州医科大学の教授と結婚していたので、満州に行かされ半強制的に満州医科大学を受験させられた?

結果受かったようです(苦笑) 

 

満州医科大学は日本人、当時 日本人だった台湾人、朝鮮人満州族(満人)、満州以外から来た華人などが共に学ぶ医科大学だったようです。

調べてはじめて知ったのですが、学費も生活費(全寮制)も国家負担だったそうです。

父が卒業するまでに戦争が終わってしまいました。

戦後、父はソ連人に騙されて列車に乗せられたのですが、カーブで列車の速度が落ちた時に飛び降りて逃げた話なども聞きました。

博多に引き揚げて無事日本に帰って来ました。

博多から関西の日本海側の田舎まで列車に乗って実家に帰りました。

引き揚げ港が舞鶴だったら近かったのにと今更ながら言ってました。

博多からの列車はぎゅうぎゅう詰めだったようです。

移動手段は列車だけの時代でしたから。

 

 

長くなってしまいました、また次に