病婦のdiary

気づいた時に、できる時に

《父の話をします つづき》

 

mm-mind.hatenablog.com

父のように満州医科大学を卒業できなかったものは、各自の住んでい都道府県の国公立大の医学部に編入する事になったのです。

父はその大学を卒業しましたが、そのことを嫌がっていました。

その医科大学に実力で入ったわけではないというようなことを言っていました。

もしかしたら祖父が学んだ大学だったからかもしれません。

国家試験も通り神戸の病院に勤めます。

この時点で故郷の家に帰るつもりはなかったと思います。

義母に二人の男の子(父の弟)がいましたから、上の男の子が故郷の家を継ぐ予定でした。

父も勿論そのつもりだったのでしょう神戸で看護婦だった母と結婚し私が生まれました。

私が一歳にもならない時、急に祖父の体調が悪くなり亡くなりました。

後継とされていた叔父はまだ高校生。

父が後を継がなくてはならなくなってしまいました。

医者と患者の関係は信頼関係だと思います。

父は故郷にいた時間が少なかった。

そんな父のところに診てもらいに来る患者さんなんか殆どいません。

普通医院を開業するのに二つのパターンがあります。

一つは地域の病院で働いていて患者さんから信頼を受けて開業。

もう一つは父親の医院で数年父親と一緒に働き信頼関係を築き後を継ぐパターンです。

父の場合は全く違ったのです。

それに家族だけでなく義母も叔父二人もいました。

叔父二人も大学へ進学しました。

金銭的にとても苦しい数年間がありました。

幼い私が覚えている父は午前中診察室にいて、午後は自転車で往診に出て、帰ってきて午後の診察、5時ぐらいに早めの夕食を食べ、また診察室に入って行き8時ごろまでいたように覚えています。

開業して10年ぐらい経つとやっと医院も落ち着いてきました、患者さんとの信頼関係が出来上がったんだと思います。

今思うと父の人生は波乱万丈だったなぁと思います。

 

不思議なもので、あの時話していたのはこういうことだったのかああいうことだったのかということが、この歳になって分かるんです。

本当に不思議です。

長々と書いてしまいました。